必然
くたびれたネオンサインの看板が明滅している。
東京の夜は空を見上げても騒がしい。
運転席からぼんやり外を眺めつつ、そんなことを思っていた。
──実家の近くは、夜になるともう少し静かだったな。
生まれ育った家にふと思いを馳せるほど、今は青春から遠ざかった。宝物のような日々を胸に抱えたまま、酔っ払いやらカップルやら、様々な客をのせてタクシーを運転し今日を生活している。学生のときは想像もしなかった将来だったが、やってみれば案外手に馴染むものである。
今ではすっかり自分なりのルーティーンを確立させて、駅前のタクシー乗り場で本日最後の客を待っていた。
終電時刻を幾分過ぎた頃。眩しい光をさえぎって、影が車窓に近づくのに気がつく。
「あざす」
乗客が取っ手に手をかける前に扉を開けた。ゆっくりと開く扉を避けては、後部座席の影に乗客が潜り込む。車体が二度揺れたので、ある程度重量のある荷物が置かれたのだと分かった。
「どこまで行きましょう」
「あー…と、とりあえず湘南の方まで」
曖昧な言い方で返される。
まいった、せめて最寄りの駅ぐらいは指定してほしいのだが。バックミラーに目を落とすが、夜闇に溶けて客の顔はあまりよく見えない。
車内の明かりは、会計の時以外はいつも落としている。
「湘南…というと藤沢の方まで?それとももっと江ノ島の近くとか」
「藤沢駅近くでいいっす」
「……結構かかりますよ?大丈夫ですか?」
「構わねえ」
「わかりました」
ぶっきらぼうな返し方をされて、これ以上確認は必要ないかとアクセルを踏む。
周囲の車の様子を伺い車道に合流する途中、今し方客としたやり取りに微かな懐かしさを感じて握ったハンドルに指がタップされる。
この投げ出すような、少し不貞腐れたふうな返事を、学生時代はよく耳にしていたような気がしていた。
***
首都高を通り、海沿いを走りながら戸塚のインターチェンジを目指す。もう1時間は車を走らせていた。
普段、話しかけられない限り客と会話を交わすことはない。週末の深夜なら尚更、余計なトラブルに巻き込まれないためにも無闇に乗客に話しかけるようなことはしないことにしていたのだ。
「…こっからだと海…見えねーか」
つぶやき声が聞こえる。
マップ上では海沿いを走っているはずだが、高速道からは海は見えない。ビルに囲まれているのだから水平線が見られないのは当然といえば当然のことだったが、客の独り言にふと気付かされる。
「窓開けますか?」
「…いや」
一瞬言葉に詰まったような空白があいた後、急いで言葉を続けるようにまとまって声が聞こえた。こちらが急に声をかけたので、驚かれただろうか。
「そうですか」
自分でも驚いている。こんな時間に車に乗り込んできた客に向かって自分から声をかけたことに。その試みは短い返事によって切られてしまったが、なぜか気まずさは感じられなかった。今晩はずっとその調子だ。
その後はいつも通り、静寂が続いた。車のすれ違う音と、継ぎ目の上を通る振動で車体が揺れる。窓から差し込んでは流れる道路照明の光を持ってしても、いまだ客の表情は確認できないままでいた。
***
微かに波音が聞こえる。
結局、藤沢駅を通り過ぎ片瀬江ノ島の方まで車を走らせて来てしまった。車は徐行し、夜の海岸が見える道沿いに止まる。
「この辺で」
言うや否や、車の外へ乗客が出る。
──しまった、まずお代を済ませてから扉を開けるべきだった。
降りやすいようにと普段会計のタイミングで後部座席の扉をこちらで開ける癖があだとなった。東京からはるばる高速道を抜けてここまで運んだのに、逃げられては商売あがったりだ。
「ちょ…、お客さん!運賃がまだ…」
慌てて運転席から降りて反対に回り、人影を追いかける。
乗客は、自分より少し背が高い男だった。髪は短く、ジャージを着ている。シルエットを見て、まだ荷物を持っていないことがわかった。
いや、それより。
もっと驚くべきことに目を丸くする。
白い街路灯の光にしっかりと陰影をつけられて照らされた顔がこちらに振り向く。男はじっとこちらを見てから、やがて口角を釣り上げて無邪気に笑った。
「久しぶり、木暮。何年振りだ?」
「……三井!?なんでこんな…、…え!?」
三井。高校の時はよく口にしていた名前だ。青春時代を共にしたチームメイト。今でも鮮明に思い出せるほどのシュートフォーム…。
驚くべきことにその彼が今目の前に佇んでいた。ドッキリ大成功とでもいいたげな悪戯っぽい表情を浮かべて。
「なんで…先に言ってくれよ!!びっくりしたじゃないか。道理で聞いたことがある声だと……」
「後で言った方が驚くだろ?ははは、さっきのお前の顔かなり笑えたぜ」
間抜けヅラで、と余計な一言を加えてくる。車内で交わした会話に感じた懐かしさは、気のせいではなかったのだ。長時間の運転で消耗した疲労と、倦怠感で力が抜ける。
ボンネットに手をついて頭をかくと、ため息の後に月光を反射する水平線に目をやった。
「言ってくれればもっと運転中に話ができたのに…実家に帰って来たのか?」
胸から全身に血が巡りどきどきとする。なんという奇遇だろう。たまたま載せた客がかつての同級生だったなんて。
大学には行ったものの、結局バスケやスポーツなどとは全く関係のない職業についた。アメリカにいった後輩たちや、風の噂で実業団に入ったと聞いた目の前の相手とはもうすっかり会う機会がなくなってしまったと思い込んでいたものを。
「おう、今は一人暮らしだしよ」
「そうだったのか…」
「お前こそ、タクシー運転手やってるなんて意外じゃねえか。よくあそこで客待ってんのか?」
「ああ、まあな。今は東京に住んでるから」
嬉しいやら驚いたやらであたふたとしていたが、肝心の向こうはあまり動揺していない様子だった。会話の途中、妙に落ち着き払っていることに気がつく。
こんなに大人びていただろうか?記憶の中の三井は高校生の時で止まっている。その後も、大学に入ってから数回飲み会で会っただけだ。
ただ潮風に身を任せているその姿が、あれから数年経った時の流れを感じさせる。
「それにしてもすごい偶然だな。あんなところで会うなんて」
「…だな」
ふいと目が逸らされる。
打って変わって短く返された言葉に、どう返そうかと考える間潮風が耳をくすぐる。じゃり、と靴底が道路を滑った音が響いてますます静寂の存在感が増した。
「…えーと、そろそろ…」
「あのさ」
そろそろ帰らないのか、と声をかけようとした。が、食い気味に遮られる。一呼吸空けて三井が再び顔をこちらに向けると、半歩分距離が近づいた。
変な感じだった。ほんの数秒の間に、遠くで聞こえていた波音がだんだんと大きくなって、そして、また静かに収束していく。
「もう一回会いたくて、ずっと探してた。…つったら、どうする?」