風の行く先
流川楓というのは昔から、正直な少年だった。
たとえば、今まで生きてきた十六年間、本心を曲げたことはほとんどない。物心ついたころから、自分の言いたいことを言い、やりたいことをした。
もちろんそれを親に叱られたり、友達に文句を言われたりもしたが、特にそれで嫌われるようなことはなかった。ワガママの大半は大抵バスケのことに関係することだけであったし、何より流川には不思議なかぜのようなものが吹いていた。そのかぜがぴゅうと吹くと、周囲の人間はすっかり絆されてしまって、なんだかんだで流川のいいふうになっていくことが多いのだ。
「……以上のメンバーで大会に出場する。スタメンにはユニフォームを後で渡すから撮りに来るように」
初夏のある日。体育館に集められた部員に、主将の赤木が告げた。
後ろでは相変わらず監督が微笑んでおり、部員たちは「ウッス」と声を張り上げて返事をする。
──いよいよだ。
待ち望んだ時が来た。流川は県大会のレギュラーメンバーに選ばれた。
驚きはしなかったが、静かな高揚が自身の内側からこみ上げる。練習試合で一杯くわされたあいつや、まだ見ぬ強敵と戦うチャンスが来たのだ。自分の目から見てもまだいびつなこのチームを押し上げて、なんとか全国大会まで、果ては優勝まで手を伸ばしたい。
燃える闘志は他の部員も同じであったようで、赤い髪をしたうるさいのなどはまた大声で笑っている。最近復帰したばかりの三井も、監督にむかって頭をさげていた。宮城はマネージャーに話しかけていて、他の二年がそれを生暖かい視線で見守るといった様子だ。
「流川、さすがだなあ…!」
「おー」
「俺もベンチで応援がんばるからな」
そばで並んでいた桑田が声をかけてきたので、頷いて短く言葉を返す。
声をかけてきたのはそちらからのくせに、桑田は目をまるくして驚いた様子だったが、自分のこぶしをにぎってみせた後に軽く流川の肩を叩いた。桑田は大人しそうな見た目に反して意外と気安い。他二人の同級生は赤いのを止めるのに必死な様子だった。どうせ主将の拳に一発やられれば静かになるのにと思ったが、干渉する気は起きなかった。
*
騒がしさが幾分おちついた後、部は解散になった。散り散りになる部員から一人逆走して体育館にもどった流川は、譲り受けたカギをタオルの近くに放り、一人ボールを手にする。
走る、飛ぶ、放る。取る、走る、放る。
何も考えていないわけではない。目の前には常に対戦相手の影を見ている。しかし静寂の中でボールの弾む音とスキール音が響くこの状況は、試合中の極限状態に感じるものと似ていて、それが流川には非常に心地よいものになっていた。
──あともう一本。これを入れたら終わりにする。
体育館の中のあつい空気を吸う。相手は自分の手の中のボールをスティールしにくるだろう。姿勢を低く保ち、一瞬停止してから切り返す。そうして高く飛び立ち、ゴールリングの中にボールを叩き込む──…。
「あれ」
がたり、という音と共に声がした。
「なんだ流川。居残りしてたのか」
「……ッス」
ボールが弾んで転がるのを追いかけてからゆっくり振り返る。そこには副主将の…そう、木暮だ。木暮がたたずんでいて、何故だか慌てた様子だった。
「悪い、邪魔するつもりはなくて」
…なるほど、此方の集中を切ってしまったのかと感じたらしい。他人の機微に興味がない流川にも理解ができる言動だった。襟ぐりで汗をぬぐいながら、わずかに首を振る。その仕草を木暮が読み取れたかどうかは分からない。
「もしかしてちょうど上がるタイミングだったか?」
ひとつ頷く。
「良かった。忘れ物してさ、もう空いてないかもっていちかばちかだったんだよ」
木暮は話しながら流川のいる場所とは反対側の方向に小走りで向かう。どうやらそこにはフェイスタオルが一枚、くたびれたようすで放置されているようだった。タオルを拾い上げると、今度は歩きながら流川の方へ近寄ってきて片手を差し出してくる。
「…?」
「鍵。俺が返してくるからさ、お前はそのまま着替えて帰りな」
瞬きをした。差し出された手のひらとお人よしな笑顔を浮かべる木暮を交互に見て流川は内心迷った。
物心ついたころからバスケをしていた流川にとって、年上に対する接し方はある程度理解ができている。運動部の上下関係というやつだ。鬱陶しいこともあるが、円滑にバスケをプレイするためなら多少は考慮するしかない。幸い、愛想がいい方ではない流川は時折パターンにのっとって受け答えさえすれば洗礼はスルーできることが多かった。高校に上がってからは多少の流血沙汰もあったが、ファウルを受けたと思えばどうということはない。コート上と違ってやり返しができることだけは勝手がよかった。
しかし、木暮はいままで出会ってきた上級生とはタイプが違う。良く悪くも──上級生に接している場面は見たことがないが──誰にでも、平等に接する人間だ。威圧感を感じない。
木暮は変な先輩だった。
「こんくらいすぐ済むんで」
「そうか?…んー」
少し考えたそぶりをして、「それなら」と木暮は手を引っ込めた。
ボールを体育倉庫に戻し照明を落とすと、体育館を出る。木暮は制服に着替えていたので行き先は違う場所だったが、必然的に途中まで一緒に戻ることになった。
「気合入ってたな。やっぱりレギュラーに選ばれたからか?」
「ッス」
「そうだよな。俺も負けてられないなあ」
快活に笑う声が誰もいない廊下にこだまする。日が暮れた後の廊下は薄暗い。白い蛍光灯が二人を照らしていた。もしかしたら、部の先輩と二人きりで言葉を交わしたのは初めてかもしれない。返事を返しながらぼんやり考えていて、流川はあまり木暮の言葉を聞いていなかった。
「うちのエースだからな、流川は。期待してるぞ」
「…エース」
「そう。赤木もお前が入ってきたときに言ってたぞ、今年は全国を目指せるって」
話す言葉に嫌味っぽさはない。楽し気にはなす木暮に、ふと注意が向いた。このひとは今年入ってきたばかりの一年生にもてらいなく言葉をかける。バスケ歴数か月のシロートに向かってさえ、怒鳴る主将をなだめながら世話を焼いていた。
「…熱意があっても、力がないとしょうがないからな。そういう意味では赤木も俺も、ずっと歯がゆい思いをしてたから嬉しいよ」
流川が何も言わないので木暮が続ける。流川が聞いているかどうかは、あまり気にしていない様子だった。独り言のような話しぶりを無言で聞き取りながら、気がつけば更衣室の前だ。
流川がふと足を止める。
「…自分がメンバーから外されてもすか」
純粋な疑問だった。レギュラーメンバーは学年など関係なく、実力で決まるといった前提の上での。
「…俺が湘北のメンバーであることに変わりないからな。もちろん」
迷うことすらなく、木暮が眼鏡の背を指で押し上げながら言う。そして流川の方へ一歩歩み寄ると、強くもなく弱くもない力加減でぽんぽんと肩を叩いた。
「お前にもそのうち分かるよ、俺が今考えてること」
文末に「多分な!」と付け加え、再度笑いながら廊下を歩くと、手を振りながらそのまま木暮は廊下の先へと消えていった。
分かるというのは、何がだ?
流川は終始置いてけぼりにされたような気分だった。笑っていたのだから、怒っていたわけではないのだろう。恐らく。今は考えても答えの出なさそうな話だったので、早々に思案を切り上げた。忘れかけていた眠気と食欲で瞼が重たくなってきたので、さっさと帰り支度を済ませる方向に流川の思考は流れていく。
着替えようと自分のロッカーの扉に手をかけた。ふと視線をやると、左右に同級生の使うロッカー。向かいあたりに二年生、一番遠くに三年生と並んでいる。並べられ、つながっている。ネームプレートにはマジックで描かれた手書きの名札が収まっていた。桑田、石井、桜木、佐々岡。名前と一緒に顔が思い浮かぶ。これは他人の名前を覚えることが苦手な流川にとって、珍しいことだった。
これからずっと、この部室に入ることになるのだろう。錆びたロッカーが軋む音を聞き、部員が入るとすっかり狭くなるこの空間で何度となく着替えることになるのだろう。中学では部室のような部屋はなく、更衣室で着替えていたから新鮮だ。
息を吸い込む。部室の中はかすかにカビくさい。この匂いにもいずれ慣れる時がくる。
「おーい」
こんこん、と窓をたたく音とくぐもった声が聞こえる。シャツを羽織っただけの状態のまま窓を開けると、そこに再び木暮がいた。校舎の外から回って部室にきたのだろう。
なぜだといったふうに眉を寄せた。帰ったんじゃないのか。
「折角だし一緒に帰らないか。正門でまってるから」
「ああ…」
「なんか心配になってさ、途中で」
何が、と首をかしげる。
「流川が寝ながら自転車漕いで転ばないかと思って…」
…木暮はやはり変な先輩だ。そんなことするわけがない。
不満げな顔ながら、誘いに頷いて返した。
なんとなく今日は、独り言を言うような木暮の声を聴きながら歩きたい気分だ。